【060】連載小説「歯医者 =予兆=」
「あっちゃー」
前歯思いっきり虫歯だよ、おい。エナメル質めちゃめちゃ削れてるしなあ、あかんなあ、結構深いかなあ、しかもど真ん中から放射状に削れてってるし、ん?おい、あれ出来んじゃねえの?
彼は、水を口に含むと前歯の隙間に力を入れる。細い水の帯が、なめらかな下り曲線を描きながら勢いよく飛んだ。
うっひょい! 楽しい! 波紋カッターだ!波紋カッター!ツェペリのおっさあぁぁぁん!んー、結構良いかも、まあ水とかそんな言うほど染みないし、歯磨きで一生このまま保たすかな、めんどいしよ
彼は洗面所の電気を消すと、自分の部屋に戻り、聞き飽きたCDを回す。
デスクトップパソコンの前に座り、電源を入れる。立ち上がるまでの間、暇つぶしに発見したばかりの口内クレーターを舌でいじくる、前歯をひとしきりいじると今度は舌をゆっくり円を描くように巡らす。
ふと、普段感じない違和感を奥歯に覚えた。
何度触っても、その違和感は消えず、むしろ確実な感覚となるばかり、違和感の原因はどうやら舌の届かないところにあるようだった。
何気なく、口の中に指をつっこみ、違和感のある場所をまさぐる
途端にあり得ない感覚が彼を包んだ。歯に指が引っかかるのだ、歯の側面というのは滑らかであるはずなのに。根本から先端まで側面に沿って指を動かす、しかし奥歯の真ん中だけがダルマ落としで抜かれてしまったように感じられた。
半ば閉じかけた瞳を倍以上に見開いて、彼は指を突っ込んだまま、また、洗面所へと走った。
おいよ、なんだこれ、まじかよ!
指で口内を押し広げ、奥歯を観察すると、左上奥歯の側面がきれいに無くなっている、ちょうど「コ」の字のようだというとわかりやすいだろうか。コの字の歯は上辺も底辺も黒く変色しており、典型的で、かつ、少年がかつて体験したこと無いほどの虫歯だった。
失意のまま、部屋へ帰り、PCの電源を消し、布団へと潜り込んだ。
哀れPCは消されるためだけに電源をつけられたのだが、少年にとって自分より哀れな生き物は、少なくとも彼の世界にはいなかった。